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猫談

     一

 木出はくたばっていた。
 長く伸びた手足をせまい部屋にぶつけ、黒く底のない瞳は天井を見たままだった。天井には大きな蜘蛛が巣をはっていたが、木出がそれをみているのかどうかは、わからなかった。涼しげな顔立ちには筋肉の緊張がまるでなく、まぶたも自然にまかせるだけ開き、光をそっと取り入れている。
 てらてらとしている日向には、蝉と物売りの声が鳴り響き、隣の共同台所から、猫のなき声が幽かに聞こえてくる。
 がらんどうに近い木出の部屋は、ことのほか蝉と物売りの声が反響して、うるさくて仕方がなかった。しかし、どういうわけか、猫の声だけは交じり合うことなく、木出の耳元で、途切れることなく鳴き続けていた。
 幻聴の類かもしれない。ちゃんと飯を食っていれば、こんなこともないのだろう。
 三月ほど親元からの仕送りが途絶え、からっぽの米櫃のなかでは、虫さえが生意気に餓死している。
 木出はくたばっていた。
 仕方がないから、くたばっていた。
 ただ、猫の声だけが、いつまでも鳴いている。

     二

 木出はゆっくりと起き上がり、けだるい体をかきながら、欠伸をした。
 陽はずいぶんと傾き、うるさかった蝉の声はいつのまにか哀しい蜩になっている。うるさかった物売りは、いまごろ家で夕飯を食いながら、うるさく子供を叱っている頃だろう。
 部屋に西日が入りこみ、木出は目を細めた。
 汗ばんだ体をなんどか手で拭い、埒が明かぬので行李から手ぬぐいを取り出した。
 今日も、あと寝るだけである。
 木出は部屋のすみにたたんである夜具を、そのまま、ずるずると引きのばして、部屋をでた。さすがに、そのまま寝るのはつまらない、とひとりで呟いた。
 木出の部屋は下宿屋の一階の端で、むかいが共同の台所になっていた。もともと部屋数の多い屋敷だったのを、大した改造もせずに貸し出しているので、各部屋に台所はつけられていなかった。それはまだいい。問題なのは風呂のほうで、これも唯一の風呂釜が壊れてからは、修理をするような気配もなく、結局、銭湯へ通わなければいけなくなった。金があるときは、それでもいいが、大変なのは、金がないときで、そういうときは、台所の井戸で行水をするぐらいしか、ほかに手がない。
 木出は台所にいき、ポンプ式の井戸から水を汲みあげ、桶にあけると、手ぬぐいを濡らし、顔をぬぐった。
 水は小気味よく冷え、汗ばんだ体に気持ちよかった。そのまま、首筋、胸、うでから足へと、手ぬぐいを動かし、水遊びのような行水を楽しんだ。
 それをじっと、猫が見ていた。
 丸々と太った三毛猫で、艶のある毛を寝かせたまま、ときおり、目を糸のように細めてみせた。流しのへりに、でん、と陣取り、飛沫がかかるたび、耳をぴくぴくさせている。ふつうなら嫌がって、どこかへ行きそうなものなのに、よほどその場所が気に入っているのだろうか、動こうとしない。老猫なので、ただ億劫なのかもしれなかった。
 野良猫ではあるけれど、この下宿屋に居つき、いつのまにか、「ふく」と呼ばれていた。
「ふく」はたいてい、丸々とした体勢で、気持ちよさそうに眠っていた。
 木出は体をぬぐいながら、「ふく」をしげしげと眺め、しばらくしてから、「ふうん」と、呟いた。

     三

「やあ、くたばってますね」
 行水を終えた木出は、眠気がうせたので、隣室の水沢に声をかけた。同じ学校のひとつ先輩で、暇になると、木出はよく、水沢と雑談をして、時間をつぶすのが常だった。学科も専攻もたまたま同じで、よく洋書のことで話しこんだ。
 木出は、ちょっとした魂胆を胸の裡に秘めながら、いつものように、鴨居に手をかけ、伸びをするような格好で遊びながら、水沢を眺めた。
 先刻の木出のように、大きな手足を壁にぶつけたまま、水沢は大の字になっていた。
 面倒臭そうに右手をあげて、水沢が応える。
「そりゃあ、君。たしかに米櫃にゃあ、空気がたくさん詰まってますがね。でも、くたばってたんじゃあない。今まで本を読んでいてね、で、ちょっと、疲れたもんだから、脳と目を休ませているんです」
「はあ。それはそれは」
 木出はわざとらしく、おどけた顔で言った。
「ぼくはまた、仕送りが届かずに、朝飯のぶんの力を節約してるのかと思いましたよ」
 それを聞いて、水沢は半身を起こし、頭をふった。
「木出くん」
「はい」
「わかっていて聞く奴のことをなんていうか知っているかい? 野暮天というのだよ」
「なるほど……それは勉強になりますね」
 教示を賜った木出は笑いながら、頭をさげるマネをした。
 水沢が、それを見て懐から莨をとりだしながら、苦笑する。
「それで、一体なんのようだい? まさか、からかいに来ただけでもないだろう? 互いに徒な力は使いたくない、身の上だよ」
 三白眼で水沢が促すと、木出は少しはにかみ、濡れた前髪を撫でるようにかきあげた。
「あんまり、退屈なんで、雑談でもしようかと思ったんですが……腹が減りますよねぇ」
「うん、減るね」
 水沢は紫煙を吐きながら、うなずいた。
 二人とも、三日ほど、ロクなものを食っていなかったから、雑談するだけの力があるのかさえ、わからなかった。声を出しているだけでも、すきっ腹にはこたえ、頭のうちはどこか、ぼんやりとしている。
 それなら、よせばいいのにと思うのだが、どういうわけかあきらめない。
「でも、ぼくは雑談がしたいんです」と、木出が言った。
「すればいいじゃないか、ひとりでしたまえよ」
「ひとりで?」
 木出が首を傾げる。「できませんよ、そんなの」
「いや、そんなことはない。なにかしら好きなことを、きみがひとりで話せばいい。そうしたら、適当に相槌くらいは打ってあげるから。さあ、やりたまえ」
「さあ、と言われましてもねえ。それじゃあ、話にもなんにもなりやしませんよ。独り言じゃありませんか」
「しかし、話というのは、たいていそんなものだよ」
 水沢は莨を一本呑み終え、また、ごろりと横になった。
 木出はしばらくそんな水沢を見ていたが、やがて、窓の外を眺め、乾きかけの頭をかいた。おもてはもう随分暮れていて、藍と墨を溶かしこんだような夕闇が、やってきている。
 木出はすこし間をあけて、また話しはじめた。
「たしかに、それも話の形態かもしれませんが……でも、水沢さん、ぼくは鍋をつつきながら、雑談がしたいんです」
「それなら、私だってしたいね。この蒸し暑い日に鍋というのも、あれだけど、汗をかいて、ふうふうやるのもなかなか乙なものだからね」
 水沢は横になったまま、体をねじらせ、木出でのほうに寝返りを打った。
 すると、木出は我が意を得たりとばかりに、顔をほころばせ、膝をぴしゃり、と打った。
「それなら、鍋とか貸してくれませんか? ぼくはこのあいだ、庖丁やら、俎板やら、それこそ、鍋やらガスコンロやらと、自炊一式を質に入れてしまったのですよ」
 ここの下宿屋は、飯炊きがひとりもいないから、各自が共同の台所を使って飯の用意をしていた。昔はこの屋の主人の奥さんが用意をしてくれていたらしいが、いまは患って寝たきりの毎日で、それはかなわなかった。一時は炊事道具を自由に使ってよかった時期もあったが、去年の夏、暑さにやられた書生が庖丁をふりまわして以来、各自で揃えるようになってしまった。
「どうして質草なんかに? ……流さないあてでもあったのかい?」
「そんなものはありませんが、どうしても読みたい洋書があったものですから、それで、つい……これでも古書街で揃えたんですがね」
 木出はこういうとき、本当にうれしそうな顔をする。水沢も、木出のそんな顔が嫌いでないから、いつも洋書の話にずるずると引きこまれる。
「……このあいだ知人が、邦訳をやりましてね。その原書を買ったんですが、これがなかなか面白いんですよ」
「待ちたまえ。鍋の話が置いたままになってるよ」
 いつもなら、そのまま話しこんでしまうところだが、今日だけは、空腹のほうが勝っている。雑談なら、鍋をはさんで、できるじゃないか、といわんばかりの口調と意気込みが水沢から漂っている。
 木出は話しかけたばかりだったので、少し顔をしかめたが、なるほど、鍋のことは自分が言い出したのだから、と気持ちをあらため、話を戻した。
「そう、鍋でした。実はうまい具合なんですよ」
「うまい具合?」
 いつの間にか半身を起こしていた水沢は、莨をくわえながら、木出の言葉をくりかえした。
「台所に猫がいるでしょう?」
「うん、いるね」
「あれを食いましょう」
「……あれって、君、ありゃ猫ですよ?」
「いけませんか?」
「そりゃ、猫はねえ……」
 水沢が渋っていると、木出は首を傾げた。
「嫌ですか? でも、犬は食うじゃないですか。赤犬といって」
「犬? ……君は、犬も食うのかい?」
「いや、ぼくの親父が昔食ったきりですがね」
「ふうん……でも、猫はねえ。猫は薄気味が悪いねえ」
 水沢は気乗りしないしない口調で頭を振り、胡坐を組んだ。
「どうしてですか?」
「どうしてって、化け猫、猫又……とにかく猫は恨む生き物じゃないか」
「うーん」
 木出は唸ったまま、しばらく考えこんだ。
「どうして、猫は恨むのでしょう?」
「知りませんよ、そんなこと」
 木出の真顔で訊ねるバカバカしい質問に、水沢は語気を強めた。幼稚なことを聞くのではないよ、と顔に書いてある。
 しかし、木出は質問を止めなかった。
「食べて恨まれるのなら、このあいだ、猫の頭を齧っていた道端の野良犬もまた、恨まれるものなんですかねえ?」
「おそらくは、そうでしょうよ」
 水沢は考えもせずに、応えた。
「じゃあ、餓死した猫は誰を恨むんです? 餓死させるような、世間様ですか?」
「……なあ、木出くん。ふざけていると、それだけで祟られるよ」
「でも、水沢さん。猫ってのは、きちんと恨むことができるものなんですかねえ? 存外、しそんじているってことも……畜生ですからね」
 言って、木出が伺うような目つきで水沢の顔を見た。水沢は呆れたようすで、手をふった。
「駄目だ、駄目だ。そんなふうに誘っても、猫なんて食べないよ。気味が悪い……さあ、もう用がないんなら、部屋に戻ってくれたまえ。さ、さ」
 水沢が立ち上がって追い立てたので、木出は仕方なく、それに応じた。
 木出は今日も飯にありつくことができなかった。
 西日にさらされた、すこし温かい夜具にありつけただけである。

     四

 幾日かして、木出はまた、水沢の部屋を訪れた。
「やあ、くたばって……ませんね。あれ?」
 木出が声をかけると、文机で本を読んでいた水沢がふりむいた。
「やあ、木出くん」
「どうしたんですか?」
「なにがだい?」
 水沢は本に栞をはさみこんで、むきなおった。
「いつも、飲まず食わずで、くたばっている水沢さんが読書だなんて……さては、仕送りが届きましたね? だったら、奢ってくださいよ。ぼくのほうはまだ届かないんですよ」
 たしかに水沢の顔色は、窶れた木出より、血色がいいように見える。しかし、水沢は否定した。
「いいや、来やしないよ」
「じゃあ……とうとう、しでかしましたか」
「なんだい、そのとうとうってのは、人聞きの悪い。まるで日頃から悪事を働いてもおかしくないような、言いかたじゃないか」
「ちがうんですか?」
 木出が不思議そうに、首を傾げる。
「木出くん、そういう冗談はよしなさい……それより、今日は一体、なんのようだい?」
 水沢は文机の上に放りだしていた莨をくわえ、灰皿を近くにひきよせた。
 すると、それが合図であるかのように、木出が部屋へと入りこんだ。
「そう、それです。実はおもしろいことがありましてね、それを話に来たんです」
「おもしろい話?」
「ええ、このあいだ、猫の話をしましたよね」
「……また、猫の話かい?」
 水沢は露骨に、うんざりした表情をした。
「まあ、聞いてくださいよ。不思議なものを見たのですから」
 木出はあたりを窺いながら部屋の襖戸を、そっと閉めた。
 水沢の正面に座り、伏し目がちに呟く。
「実は、あの話をした翌日に……にゃあにゃあ、と台所から、あの猫の声が聞こえてきましてね」
「あの猫って……「ふく」の?」
 水沢は怪訝そうに眉をひそめた。
「ええ、それが老猫のくせに、さかりがついたように、にゃあにゃあと喚きましてね。部屋で寝ていても、うるさくて仕方がないんです」
「ふうん」
 水沢は窓の外を見やりながら、ぼんやりと生返事を返すだけだったが、木出はかまわずに、話を続けた。
「あんまり鳴くものですから、頭に来ましてね、外に追い出してやろうと、台所に行ったんですが……猫がいないんです」
「いない?」
「ええ、声はたしかにしていて、にゃあにゃあ、とうるさい。でも、それなのに、どこにも姿が見当たらないのです。不思議に思って、声の出所をよくよく調べると、流しの配水管の奥から聞こえているようなんです。でも、どう考えても、猫が入れるような大きさはない。変だな、と思って排水口を覗きこんでも、そこは闇。なんにも見えない。見る目を交互にかえても、同じなんですが、こちらも執念だから、意地になって見ていると、あの猫と眼が合ったんです」
「目が合った……配水管に嵌っていたのかい?」
「よくわかりません。覗きこんだ排水口は、真っ暗闇でなにも見えないはずなのに、あの猫に見られているような気がしたんです」
「なんだか、わからない話だね」
 水沢は木出の言っていることを理解しかねた。相手の猫が見えないのに、どうしてそんなことが、わかるのだろう。そのへんは木出も判然としていないらしい、もどかしそうに言葉を探しながら、話を続けた。
「うまくは言えませんが、でも、そういう気配を感じるんです。不気味な視線と寒気を感じながら、ふと顔をあげると、目の前にあの猫が座っていました」
 水沢は一本目の莨を呑み終え、黙って二本目に火をつけた。
「声は相変わらず排水口から聞こえているのに、その猫と目が合いました。のどを鳴らしたまま、こちらから目を離そうとしません。ぼくも目をそらしませんでした。いや、そらせなかったというほうが正しいでしょう。なんだか体が金縛りにあったように、動かないんです。あの猫は、そのことに気づくと、顔を腐らせていきました」
「腐らせるって、どうやって?」
 水沢が聞き返した。
 ふたりともびっしょりと汗をかいていた。どちらも拭うことを忘れ、顎の先から、ボトボトと垂らしていた。
 その蒸し暑い空気の中で、木出は頭をふった。
「説明なんてつきません……最初は体に似合わない小さな仔猫の顔でこちらを見ていました。それが徐々に膨らんでいって、だんだん体と釣り合いが取れてくると、今度は顔の毛がバサバサと抜け落ちて、皮と毛がまだらになりました。しかし、首から下はなんともないようで、いや、むしろ毛並みに光沢があるんです。腹は呼吸による上下動を繰りかえしていました。そのあいだも毛は抜け落ちていて、終いには、顔中の毛穴から毛が噴出すような勢いで、皮も肉も、そぎ落ちていきました。耳すら足場をなくし、ぺたりと音を立てて落ちていきました。それは流れ行く血肉の滝といった体です……それでも、ぼくはまだ、猫を眺めていました。耳が削げ落ち、猫とも思えぬ異形でも、その眼は骨の宙……ただなかにぼんやりと浮かんでいたからです……それを見て、ぼくはなぜか安堵していました。しかし、それは刹那のうちに崩されました。あの猫が、後ろ肢で耳を掻くような仕草をし、頭蓋骨を蹴飛ばしたんです。骨はゴロゴロと転がりました。ぼくは、あの眼を見失い、首の隙間からあふれる血肉の塊が、排水口に流れていくのを眺めていました……にゃあ、という声が聞こえるまで、ぼくはずっとそうしていました」
 木出はそこで話を区切った。
 部屋は物音ひとつしなかった。
「ね、おもしろい話でしょう? おもしろくありませんか」
 聞かれた水沢は、ぼんやりと文机に肘をついて黙っていたが、やがて、応えた。
「いいえ、おもしろい話です。不思議な話です。なにより驚きなのは、あの猫に、そんな霊力があったってことですが……しかし、あの猫は一体、なにがしたくてそんなことをしたんでしょう?」
「たぶん、このあいだの仕返しだと思います」
「仕返し?」
「このあいだ鍋にして食おうと言ったのを、聞いていたんだと思います。猫というのは、水沢さんの言うとおり恨むようだから、それで仕返しに、ぼくを化かしたんでしょう」
「ふうん」
 水沢は納得できないようすで、返事をかえした。
「ただ、考えて、ぞっとするのは、本当に食っていたら、今頃なにをされていたかわからないってことですね。話をしただけでも、この有様なのだから……本当に、ぞっとしますよ」
 木出は笑いながら、手の甲で汗をぬぐい、それから本のことへと話題を移し、半刻ほど喋っていたが、――水沢はそのほとんどを聞いていなかった。

     五

 木出が部屋を出たあと、水沢はかなり長い間ぼんやりと莨を呑みながら、物思いに耽っていたが、やがて、部屋のすみにおいてあった行李に近づき、なかから、おもむろに……猫の毛皮を取りだした。
 三毛猫の毛皮。
 水沢は、あの話の夜のうちに、すでに「ふく」を食っていた。
 そして、それだけでは勿体ないと、皮をうまく剥ぎ、三味線屋にでも売ろうと、行李のうちに、今までしまっておいた。
 老猫一匹の食いでを惜しんだ水沢は、木出をうまく出し抜いたのだが、どうにも寝覚めの悪いことになった。
 手にした毛皮は重く、水沢は物憂げに眺めた。
 ため息をひとつつき、訊ねるような口調で、ひとり呟いた。
「化けて出る相手を間違えてるじゃないか……食ったのは、私なんだよ? それとも、彼のほうが化けられるだけのことをしたっていうのかい?」
 水沢の言葉は、虚しく宙に響いただけだった。が、その刹那、手にしていた毛皮が身震いし、水沢のもとから飛びのいた。
 そして、
「にゃあ」
 とだけ応えると、首のない毛皮は、ととととと、と四肢で歩き、部屋から出て行った。
 水沢はしばらく、その光景に肝をつぶしていたが、しかし、到底、自分が恨まれているようには、思えなかった。